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おかめ団子 (人情噺)

地味な演目かもしれません。

人情噺としては親孝行ストーリーなのですが、盗みに入った太助が結果的に娘婿になってしまうというベタな展開が江戸人情を象徴してます。

太助の家での孝行ぶりや、盗みに入る前に「お月さん」に向かってつぶやくセリフなど、芝居の一幕が情景として浮かびます。

志ん生得意の演目だったようですが、志ん朝も流石。 

盗みに入ったおかめ団子の庭先での一連の展開。 旦那、おかみさん、店の者、太助、娘のお亀、と居合わせた大勢の登場人物を、トントントンと見事に演じています。

 

Wike Pedia にとても丁寧な説明が載っていたので、参考にさせてもらいました。(以下)

文政年間(1818~30)から明治30年代まで麻布飯倉片町に実在し、「鶴は餅亀は団子で名は高し」と川柳にも詠まれた名物団子屋をモデルとした噺です。

おかめ団子の初代は初代は諏訪治太夫という浪人で、釣り好きでしたが、あるとき品川沖で、耳のある珍しい亀を釣ったので、女房が自宅の庭池の側に茶店を出し、亀を見に来る客に団子を売ったのが、始まりとされます。

それを亀団子といいましたが、二代目の女房が オカメそっくりの顔だったので「オ」をつけておかめ団子。 これが定説で、看板娘の名からというのは眉唾のよし。

黄粉をまぶした団子で一皿十六文と記録にありますが、明治の三代目麗々亭柳橋の速記には五十文とあり、これは幕末ごろの値段のようです。

志ん生得意の人情噺

古風で、あまり面白い噺とはいえませんが、五代目古今亭志ん生、八代目林家正蔵が演じ事実上志ん生が一手専売にしていたといっていいでしょう。

明らかに自分の持ち味と異なるこの地味でつつましい人情ものがたりを、志ん生がなぜ愛したかよくわかりませんが、あるいは、若いころさんざん泣かせたという母親に主人公を通じて、心でわびていたのかも知れません。

志ん生は多助を、「年齢(とし)頃二十二、三、 色の白い、じつに、綺麗(きれい)な男」と、表現しています。

この「きれいな男」という言葉で、泥にまみれた農民のイメージや実際にまとっているボロボロの着物とは裏腹の多助の美男子ぶりが想像できます。同時に、当人の心根をも暗示しているのでしょう。

古いやり方では、実は多助が婿入りするくだりはなく、お亀は、使用人の若者との仲が、親に許されずそれを苦にして自殺をはかったことになっていました。

志ん生がそれを、あらすじのように改めたものです。

大根屋

多助のなりは、前述の麗々亭柳橋の速記によると、「汚い手拭いで頬っ被りして、目黒縞の筒ッ袖に、浅葱(あさぎ=薄い藍色)のネギの枯れッ葉のような股引をはいて、素足に草鞋ばき」
といいますから、当時の大根売りの典型的なスタイルです。

近在の小作農が、農閑期の冬を利用して大根を売りに来るものです。 ダイコヤと呼びます。

大根は、江戸近郊では、練馬が秋大根(8、9月に蒔き10~12月収穫)、亀戸が春蒔き大根(3、4月に蒔き5~7月収穫)、板橋の清水大根が夏大根(5~7月に蒔き7~9月収穫)として有名でした。

多助の在所の目黒は、どちらかといえば筍の名産地でしたが、この噺で売っているのは秋大根でしょう。 大八車に積んで、山の手を売り歩いているはずです。

麻布飯倉片町

現在の港区麻布台三丁目、東京タワーの直下。

今でこそハイセンスな繁華街ですが、旧幕時代はというと、武家屋敷に囲まれた、いたって寂しいところ。
山の手ですが、もう江戸の郊外といってよく、タヌキやむじなもよく出没したとか。

飯倉片町おかめ団子は、志ん生ファンならおなじみの、「黄金餅」の、道順の言い立てにも登場していました。

 13貫と云うのは、明治の初めは、十銭が一貫だった。現代の貨幣価値に換算するのは難しいが、『四貫相場に米八斗(しかんそうばにこめはっと)』と云う言葉があり、一両=四貫=8万円とするのが妥当と思われる。

つまり、この日の「おかめ団子」の売り上げは、13貫=26万円と思われる。風の強い日だから少なくて、普段はこれの三倍あると語っているので、39貫=78万円。

相当な団子屋である事には違いない。

奉公人の人数は語られていないが、番頭を含めて5,6人はいる様子。


 
志ん朝復活-色は匂へと散りぬるを と「おかめ団子」「茶金」

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